“日语文学”——超越国境的意愿
日本語文学という言葉を知っていますか?日本で書かれた文学ではなく、日本語で書かれた文学すべてを意味し、「在日朝鮮人作家」の金石範さんらが使いはじめた言葉ですが、研究者?作家たちの間や国際的な場で、この言葉の使用が増えています。その理由は、日本語文学に、「国境を越える――越境への意思」が、強く込められていることにあります。
你知道“日语文学”这个说法吗?它并不是指在日本撰写的,而是用日语来撰写的全部文学作品。这一说法由“在日朝鲜作家”金石范等人率先开始使用,不过在研究者、作家们之间或是国际性场合中,使用频率已经越来越高。究其理由,是因为“日语文学”中强烈地表达出了“超越国境——跨越界限的意愿”。
目に見えるもの、見えないもの
眼睛所能看见的、看不见的事物
私たちの身近にある地図には、実在しない、本当は目に見えないものが書かれています。例えば、朝鮮半島に走る北緯38度線は、北の朝鮮民主主義人民共和国と南の大韓民国との境目となる緯度ですが、この線を実際に目で確認できる人は、いないはずです。というのも、緯度とは、そもそも実在しない線――不可視の線だからです。この緯度に重なる国境についても同じことが言えます。二つの国の境目、国境線の「実物」を視認できる人もまた、この世にはいないでしょう。
在我们身边的地图上,描绘着实际上不存在的、眼睛无法看见的东西。例如,位于朝鲜半岛北纬38度的“三八线”,是北朝鲜民主主义人民共和国与南大韩民国所谓的分界纬度线,可实际上恐怕没有人能亲眼确认这条界限。换言之,纬度本来就是实际不存在的线——是不可见的线。与纬度重叠的所谓国境亦如是。在这个世上也没有人能用眼睛去确认两国之间的界限、即实际的国境线吧。
実在せず、目に見えないという点では共通する緯度?経度と、国境線ですが、この二種類の線には違いもあります。それは、国境には、緯度?経度に比べて、より多くの人為的な力が含まれている点です。古来「国」は、幾つもの戦いの上に成立してきました。国の内部での、あるいは隣りの国や地域との戦争によって、国境線は、たびたび位置を変え引き直されています。あらゆる「国」は、こうした争いや戦いと無縁ではなく、その意味で、国境とは、戦争で流された「血や涙の線」だとも言えます。
虽然纬度·经度和国境线一样都是虚构的、看不见的,但其实这两种线亦有不同之处。所谓国境线,比起纬度·经度,包含了更多人为的力量。自古以来,“国家”是在几经征战的基础上建立而成的。在国家内部或者与邻国及地区之间的战争中,国境线的位置都会随之改变、重设。所有“国家”都不可能不参与这样的争夺与战斗。因此,所谓国境,可以说是在战争中洒下的“血泪线”。
国の境目と言語?文化の境目
国家的分界线与语言·文化的交界
時に人は言語?文化の境目と国境が一体化していると考えます。しかし、言語?文化の境目と国の境目とは必ずしも一致しておらず、むしろ人為的に引かれた国境が文化を分断し、人々に亀裂を走らせ傷を負わせてしまうのです。国境を越え、言語?文化を、あらゆる人々へと開く、そんな日本語文学が、いま注目を集めるのは、国境が分断する文化を地域や生身の人間の元へ取り戻すことから始まる越境、「国際化」への希求の現れなのです。
有时,人们会把语言·文化的交界线与国境作为一个整体来考量。但是,语言·文化的界限与国家的分界并不一定是一致的,反而是人为造成的国境使得文化被分割,人与人之间产生隔阂而互相伤害。超越国境,将语言与文化向所有人敞开,这样的日语文学现在正备受瞩目,它把被国境分割的文化带回到地区以及人们的身边,这样的一种“跨越国境”表现出了对“国际化”的追求与期望。